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聖書通読 マルコによる福音書
1章
- 1節「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあります。福音書は主イエスの伝記ではなく、「福音の初め」を記したものです。
- マルコによる福音書は、洗礼者ヨハネのことから始まります(2~8節、9節、14節)。主イエスの誕生の出来事は記していません。サタンの誘惑を受ける話(12~13節)も他の福音書に比べてあっさりしてます。
- 14節から、「神の国の福音」を宣べ伝える主イエスの活動が始まります。38節にも、主イエスの活動の目的が記されています。
- 主イエスの正体を知っているのはだれでしょうか?(24節、34節)
- マルコによる福音書は「すぐに」が口癖です。1章ではどこに出てくるでしょうか。2章以降でも頻繁に出て来ます。
2章~3章6節
- 4人の男たちが病人を寝たまま主イエスのもとに連れてきました。どのようにして主イエスがおられるところに連れてきたでしょうか。(4節)
- 主イエスのことを「神を冒涜している」と心の中であれこれと考えた人は、何という人たちでしょうか。(6~7節)
- 2章17節:主イエスの活動の目的がここにも記されています。主イエスは何をするために来られたのでしょうか。
- 21~22節「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる」とか「新しいぶどう酒は新しい革袋に」とかは、良く知られた言い回しです。
- 主イエスの行動が気に入らない人たちの反感が次第に募ってきます。最初は心の中であれこれと考え(6節)、弟子たちに問い詰め(16節)、主イエスに直接質問し(24節)、ついに殺害の相談に至ります(3章6節)。
3章7節~4章34節
- 主イエスがどなたであるかを知っているのは、やっぱりこういう人(?)たちです。(3章11節)
- 主イエスは12人の弟子を選びました(3章13~19節)。その一方で、身内からは理解されません(3章21節)。
- 4章は「種を蒔く人」のたとえです。さらにその後、ともし火、秤(はかり)、成長する種、からし種とたとえ話が続きます。
- これらのたとえ話は何について語られたものでしょうか。11節、26節、30節。主イエスは活動の最初に1章15節で「神の国は近づいた」と言われました。それがここではたとえ話の形で語られています。
4章35節~5章
- 主イエスが嵐を静める話(4章35~41節)は他の福音書にもありますが、「艫(とも)の方で枕をして」(38節)と具体的に記すのはマルコ福音書の特徴です。
- 4章40~41節:弟子たちはどうやら、主イエスがどういうお方であるか、よく分かっていないようです。5章31節も。
- それとは反対に、主イエスが「神の子」であることを知っているのは、ここでも汚れた霊に取りつかれた人です(5章7節前後)。
- 5章21~43節:「ヤイロの娘」が起き上がる出来事の間に、「十二年間も出血の止まらない女」の癒しの出来事が挟まっています。
- 主イエスが亡くなった子どもの手を取って言われた「少女よ、起きなさい」という意味の言葉は、カタカナで何と記されているでしょうか(5章41節)。これは当時の日常の言語であったアラム語での言い方です。
6章
- 1~6節:主イエスの故郷の人々や親戚は、やっぱり、主イエスを理解しません。3章21節と同じですね。
- 14~29節:洗礼者ヨハネが殺されることになった経緯が記されています。マルコによる福音書は洗礼者ヨハネのことから語り始めました(1章)。洗礼者ヨハネには、主イエスの歩む道を準備する務めがありました(1章2節)。この世の権力者に命までもてあそばれる洗礼者ヨハネは、その死も主イエスを指し示しています。
- 30~43節:「五つのパンと2匹のさかな」の奇跡として有名です。残りくずを集めたら、何籠にいっぱいになったでしょうか。
- 44~52節:主イエスは湖の上を歩かれます。主イエスがどうされたら、湖は静かになったでしょうか(51節)。ここでも弟子たちは主イエスがなさったことがよく分かっていないようです(52節)。
7章~8章26節
- 7章24~30節の話は良く知られています。食卓の下に落ちたパンくずをいただくだけで十分とする信仰が主イエスを動かします。
- 耳が聞こえず舌の回らない人を癒すときの、「開け」という意味の主イエスの言葉は何でしょうか(34節)。これも5章41節と同様、アラム語です。
- 8章1~10節:6章では5千人に食べ物を与えましたが、今度は4千人です。そして最初にある食べ物は「七つのパン」です。残ったパンくずは何籠になったでしょうか。
- 8章14~21節:やっぱり弟子たちは、主イエスがどういう力を持ったお方であるか、分かっていないようです。
8章27節~9章29節