キリストの死と復活をゲット!

2020年4月12日イースター礼拝説教(要旨)

ローマの信徒への手紙6:4,8

牧師 春原禎光

 キリストは復活されました。主イエスの復活によって、人の命は死で終わるものではないことが明らかにされました。むしろ、死の方に終わりがもたらされました。
 人間は誰もがやがていつかは死ぬ時を迎えます。これを死の支配と言います。しかしキリストの復活は、死の支配に風穴が開けられた出来事です。地上で生きる限り私たちはいつか死を迎えますが、それにもかかわらず、もう死に支配されていません。キリストの復活によって、死の支配は終わり、新しい世界が訪れています。
 主イエスが墓に葬られた時、その入り口が大きな石でふさがれました。しかし主イエスが復活された時、その大きな石が転がされていました。動かすことの出来ない大きな墓石が動かされていた(マルコ16・3~4)ことは、人間には動かすことの出来ない死の支配に終わりが来たということです。

 私たちがあらためて思いを向けたいのは、復活のためには一旦死ななければならないということです。しかも、完全に死の支配を受けなければなりません。それは絶望の世界、暗黒の世界です。主イエスはそのような完全な死の支配をその身に受けられました。
 それが、例えば主イエスが十字架の上で叫ばれた言葉に表されています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46、マルコ15・34)。神の御子が神から見捨てられるとは、これこそ本当に暗黒の世界、絶望の世界です。
 あるいは、使徒信条に「陰府にくだり」という言葉があります。陰府という言葉には、死んだ者が行くところという意味で用いられている箇所もありますが(例えば創世記37・35)、ここでは、完全に神から見捨てられた世界のことです(例えば詩編6・6)。陰府はまことに絶望であり暗黒です。主イエスはそこまで赴かれました。

 しかし、そのように完全に死の支配を受けられたからこそ、そこからの復活は、死の支配を内側から完全に打ち破る復活でした。そのとき新しい世界が始まりました。そこはもう死によって支配されることのない世界です。もう神から見捨てられるなどということは全くなくなりました。
 この新しい世界に入るためにはどうしたらよいでしょうか。そのためには、キリストに結び合わされて、キリストの死と復活をこの私の死と復活とさせていただかなければなりません。そのようにして私たちも、一旦完全に死んで、そしてもう死によって終わることのない命に復活させていただくことができます。
 では、どのようにしてキリストに結び合わされるのでしょうか。それが洗礼です。洗礼は、私たちがキリストと結び合わされ、キリストの死と復活にあずかる出来事です(ローマ6・3~4)。洗礼は単なる儀式ではなく、その時に十字架の死と復活を遂げられたイエス・キリストに私たちが結び合わされます。洗礼は、神の力がこの私に及び、この私を通して驚くべき御業がなされる時です。そのようにして、私たちがキリストと結び合わされることで、キリストの死と復活がこの私の身に起こります。偉大な神の恵みの御業がこの私に起きるのです。イエス・キリストは、私たちすべての人間をこの新しい世界へと招いてくださっています。

 洗礼を受けてキリストに結び合わされた者たちの集まりが教会です。たとえ教会という建物に集まることが出来なくても、洗礼を受けた者たちが心を一つにして主を礼拝しているならば、そこに教会があります。そして、教会があるところに、キリストの復活の命が溢れ、キリスト御自身がおられます。教会は、もう死によって支配されることがないことを世に向けて証し、そのような新しい世界がここにあることを世に知らせてゆきます。
 現在の状況の中、日本中、世界中で、やむなく礼拝を中止にしている教会が多くありますが、それでも、それぞれの教会に属する人々がキリストに結び合わされている霊的な群れである教会が存在しています。そして、そこに復活のキリストがおられます。