暗闇の中であなたを照らす光

2019年12月22日クリスマス礼拝説教(要旨)

創世記1:3、ヨハネによる福音書1:1〜13

牧師 春原 禎光

 神の天地創造の御業は、言葉によって行われました。神が「光あれ」と言われると、何もないところに光が創造されました(創世記1・3)。光もその他のものも何もない全くの暗黒の中に光を創造する神の御業は、なんと驚くべきものでしょうか。それが言葉によってなされたのです。
 神の言葉は神の意志の現れです。あるいは、神の御心の現れということもできるでしょう。神が意志されたこと、神が御心に思われたことは、必ずその通りになります。なぜならば、そう意志されたのが神だからです。神がそうなれと命じられたら、必ずそのとおり実現します。それが神の創造です。そのような創造の御業に言葉が用いられます。
 神の言葉は神の意志の現れですから、神と共にあり、神と共にあるものならば、初めからあるものです(ヨハネ1・1、2)。神の言葉は、初めからあり、神と共にあります。

 光の創造に限らず全ての創造の御業が神の意志の現れですから、神によって創造された世にとって、神の創造の御業は(象徴的な意味で)光です。反対に、神の意志が現れていない世界、神の御心が示されない世界は、神に反する世界であり、それゆえに暗黒です。
 さて、人を救うということも、神の意志の現れ、神の御心の現れです。救いは神の言葉による神の御業です。そのために神が御子を世に送られた出来事も、神の意志の現れ、神の御心の現れであって、神の言葉による神の御業です。さらに言えば、世に来られたイエス・キリスト自身が神の意志を世に現すものとして、神の言葉そのものです。実に、神の御子こそ、初めからあり神と共にある神の言葉です。
 ヨハネによる福音書の冒頭では、「言」の一字で「ことば」と読ませる特別な表現をしています(ヨハネ1・1、2)。人間が書いたり話したりするような言葉ではなく、神の意志を世に現すものとしての「言」、人を救うという神の意志を世に実現させるイエス・キリストを指す特別な「言」です。

 世に来られた神の言葉であるイエス・キリストは、わたしたちを訪れてくださいます。わたしたちは、世に来られた神の言葉であるイエス・キリストと出会います。この出会いはわたしたちにとって天地創造の御業に匹敵する光であり、わたしたちと出会ってくださるイエス・キリストこそまことの光です。わたしたちがキリストと出会うことは神の御心であり、神はわたしたちが神の言葉であるキリストと出会うことを求めておられます。そればかりか、わたしたちにおいて神の御心が実現されるとき、わたしたちが用いられて神の意志、神の御心が世に向けて表わされてゆきます。
 キリストとの出会いは、礼拝において起きます。礼拝はキリストと出会うところです。そこでキリストが生けるお方として現れてくださるからです。礼拝は、世においてわたしたちに驚くべき神の御業が現される機会ですから、わたしたちの日常生活の中で他にはない決定的に重要な時です。わたしたちは、キリストと出会うという驚くべき神の御業が神の言葉によって起こることに期待して、礼拝に集います。

 クリスマスは、世にまことの光が訪れてくださった祝いの時です。わたしたちはもう、この光に覆われています。この輝きに包まれています。それは過去の光ではなく、今、このわたしたちを照らしてくださっている光です。
 そして、光に包まれたわたしたちの存在が、神の意志、神の御心の現れ出るところとされています。神がわたしたちと共におられ、わたしたちが神の御心の現れとされています。
 最後に、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」とあります(ヨハネ1・12)。神の子と言えば主イエスのことであり、イエスこそ父なる神の御心の現れとして神の子なのですが、わたしたちも神の御心の現れとして神の子とされて、神が共にいてくださり、御心の現れとされているのです。